あらゆる浮ついた感情

 はてなブックマークの記事が一段落ついたところで、改めてはてなブックマークはじめ現状のネットの危うさについて、もう少し整理してみようと思う。ただし、この辺の話をうまく自分の中に落とし込むには一朝一夕ではどうにもならないようなので、今回は書きたいことのうち「ネットの議論」の一点に絞って整理していく。ちなみに今回の記事は更新予定だった土日に風邪で体調を崩してほとんど横になったきりで動けなかったので、2日後の2018/05/29に過去更新を使って更新した。申し訳ない(別に見てる人もそんなにいないけど
 今回書く内容は、既に書いた記事をより具体化して整理したしたもの――とりわけ上の記事をより深く掘り下げて整理したものだと言っていい。

私的使用を指摘しよう、公的使用を更迭しよう - キットカットきっとぐにゃっと

太陽のぎらつく水曜日の昼 - キットカットきっとぐにゃっと

それから、日記と同じ調子だと話が印象論によりがちなので、今回以後の記事では極力論考としての形をとって書くようにしていきたい。ただ、別にこれをもとに耳目を集めたい、とかいった欲求もないし、独り善がりな論考として書いていきたいので、タイトルはこれまでのものを踏襲して適当な題をつけ続けていく。もしこれを読んでいる人がいたとしたら、各記事の分類がしにくいかもしれないけど、容赦してほしい。


 それでは先ず、下敷きになっているとした、上の2月28日の記事の要旨をまとめておこう。この記事で書いているのは、ざっくりまとめてしまえば以下のようなことだ。

  • ネットでは、論敵を手厳しく批難したいがあまりに“藁人形論法を用いた藁人形論法がしばしば見られ、これが結果として議論を危険な方向に向かわせている。
  • 一つの記事に対して一斉にコメントを寄せる、という仕組みには、不適切なコメントに対して反論を行うことが考慮されておらず、反論を行うために超えるべきハードルが高い。
  • また、反論を行う際に発生する手間に対して、それによるインセンティブに乏しく、そもそも積極的に反論を行おうとするだけのメリットが反証者側にない。

 これらの指摘については、おそらく多くの人が賛意を示してくれるだろうと思うし、自分自身、現在でもこうした考えを持ち続けている。しかしながら、これらの指摘だけでは、まだネットの議論の不備を十分に指摘できたとは言えない。ネットの議論の手順を踏まえて、各工程で発生し得る議論上の不備について、より深く考え、考え出された事項を整理していく必要がある。

 まず最初に、現実でとり行われる議論と、 ネット特有の「開かれた空間」における議論との違いについて書いてみよう。既に上の記事の要旨でも書いたように、ネットで行われる議論(議論と呼ばれているもの)というのは、実生活上で行われている議論とは、実際のところかなり異なるものだ。その違い、というものを大きく一つにまとめてしまうとすれば――現実の議論であれば当然踏まえられているはずの前提や規則の多くが踏まえられずに進行している――ということだろう。
 現実の議論では、通常次のような手順を取って議論が行われる。

 (1) まず論じるべき“論題”というものを策定し、その論題を議論を行う双方が承認する
 (2) 議論を誤謬なく円滑に進行させるために必要な規則・規定、双方が相手の発言権を承認する
 (3.1) いずれもが公平に自説を論じられるように配慮し、交代制で自説を論じる。相手の論説に誤謬ないし詭弁が認められる際には、反論の意志を示した上で相手に誤謬の修正を促す
 (3.2) ある一方が反証の範疇を超えた人身攻撃や中傷が認められる際には、意見の交換者でない監督者ないし審判者が発言者を諌め、議論の脱線を防ぐ
 (4) 双方の意見を交換し、誤謬と思われる論理、事項を排除して導かれた最終的な意見を最初に策定した論題と照らし合わせて、もっとも妥当と思われる結論を導き出す

 では、ネット空間で行われる議論についてはどうだろうか?
  実際の議論と異なりネットで行われる討論には、何のルール決めや前提条件も、論理的是非を問うための審判、中傷的論駁から互いの討論者を守るための裁定を図る第三者も存在しないことがほとんどだ。基本的にネットの意見交換というのは、それがどういった種類のコミュニケーション構造を持っているものであれ、よそから持ち込まれてきた論題(多くは電子新聞の記事や個人に依る問題的などだ)をもとに、ある意見Aを発するものとそれに同意しない意見Bという、2つないしそれ以上の意見が相互に発されることから始まるものであり、予め定められた議論の場に両者が立ち並び、それぞれの立場の承認の下に意見を発し合うものではないからだ。こうした出発の仕方は、敷居が低く、より積極的かつ活発な意見交換が促される一方、さきに書いた通り議論としての厳密さを著しく欠いている。そもそも、議論の出発点はおろか、終着点さえネットの議論では曖昧なのだから。
 そもそもの手続きが違う以上、実際の議論とネット上での議論を現実の議論で執り行われる流れをそのまま用いることはできないのでひとまず「議論の開始時点」「議論の最中」「議論の終着時点」の3つのポイントを設定し、そこからそれぞれに、発生しうる不備について羅列整理していこう。

  • 議論の開始時点での不備
    • それぞれの意見者は、論題における論拠、およびその論拠の正当性を確認し合っておらず、論拠そのものが間違っているという可能性が見過ごされがちである。
    • 論題において具体的に両者が問題としている点はどこなのかという点について、当事者間で予め確認されておらず、より包括的な目線で見た時、議論をやり合うほど思想的立ち位置が異なるわけでもなかった、という場合がしばしばある。
  • 議論の最中における不備
    • ネット上での議論では、あらかじめ意見者と傍聴者が誰なのかが明確にされておらず、一番最初の問題提起と意見交換を目にした不特定多数の閲覧者がその議論に後から参加し、意見を述べる可能性がある。
    • 討論の場を目にし、その流れに追って参加したその他の人間も開始時点における不備を、同様に抱えている。
      • 後から討論に参加した人間のうち、具体的に誰が相手への反論を求めているのか、単に個人的な感想の表明に過ぎないのか、といった点が曖昧になりがちであると同時に、これらの多数の後からの参加者の意見の論理的是非を測ることができるような裁定者も存在しない。
    • 上記の項目ゆえに、論点は意見を発した人間の数に比例して分散していき、その数は極めて膨大なものになる。するともともとの討論者はそうした意見全ての反論が難しいばかりでなく、議論の全容の把握さえ困難になってしまう。
      • また、こうした面があるために追って参加した者の間でしばしば「自分の意見が顧みられていない」といった不満、またそこから派生して、実際の論理的是非によらず「彼らは私の意見を問題にすると都合が悪いから、意識的に私を排除しているのだ」といったような邪推が芽生えがちである。
    • 追従者のみならず、その討論を目にし感想(コメント)を寄せる人間は、当事者意識に欠けていて、議論の当事者が多少なりとは踏まえているであろう感情的自制さえも踏まえられず、往々にして論点を的確に捉えられていない曖昧な理屈、中傷的な意見が目立つ。
      • 論理的不整合がどこにあるかを明示せず漠然とした「まったくバカげた意見だ」「なにも分かっていない」だとかいった感想を平気で開陳し、討論者たちを精神的に疲弊させる。
      • またそうした放言を飛ばす閲覧者を問題とし、具体的な行動をとることが出来るような裁定者が存在せず、また裁定したところで、ネットという空間では具体的な制裁を取ることが困難である。
  • 議論の終結における不備
    • 議論の開始時点で論点が明確化されていないうえ、追って参加する者の存在に酔って議論が不明瞭になってしまうがゆえに、終着点が見つからない。また終着点を定めようとする頃には、追って参加した人々の意見の発言によって論点が分散し、終結させようとしたところで、すでに不可能であることが多い。
    • さらに言えば、そうした際限なき意見の拡がりの果てに、他者の意見の矮小化という非倫理的手段に基づいて議論の終結が図られることが極めて多く見受けられる。
      • 例:(意見者Aが一連の議論を総括して)「結局のところ、私の意見に反対している人たちの意見はどれもバカげていて、反論する気にさえならないものばかりだった」「とどのつまり、私の意見に反対している人間は**(印象ありきの断定、藁人形論法に拠る言説)なのだ」などと根拠なく結論づける。

 この他にもいくつか、不備と思われる点があるが、羅列だけでも話が大きくなってしまうため、一先ず重要なものや、顕在化しやすい不備などに絞って整理した。
 どうだろうか? ネットの――とりわけはてなブックマークTwitter、ブログといったハンドルネーム式(個人の識別が可能な)SNSなどでの――議論に参加した人間であれば、先に示したような状況に、少なからず遭遇した経験があるのではないだろうか。

 これらが示すように、同じように「議論」と呼ばれてはいても、実際のところ、それらが行われる環境、構造というのはそれぞれにまるで異っている。そしてこのネットで行われる名目としての“議論”というものは、現実のそれと比べて大きな欠陥を内部に含んでおり、こうした欠陥は現在の社会、人間と人間との間で結ばれる相互理解を阻み、 論理に基づく是非でなく『自分と意見を異にする者か否か』という感情的で主観的な意見の峻別による他者への攻撃を生んでいる……


 ひとまず、現時点において自分が整理するのはここまで。ここからはこの部分を踏まえたうえで、「これらの弊害が単に特定の年齢・階層・性別・国家のみに及んでいるものではなく、ネットを利用しているあらゆる層の間で顕在化していること」についてや、「そうした弊害を生みやすいソーシャルネットワーク」について、もう少し自分なりに言語化してみたい。
 今のところでは、初夏ぐらいまでにはなんとか一先ずケリをつけたいなと思っているのだけれど、どうだろう。とにかく今の自分には、現実での出来事にせよ、こうしたネットでの現象にせよ、あまりにも整理しなくちゃならない出来事が多すぎて、どうにも困る。睡眠時間もまだ安定しきらないし、どうにかならないもんか。うーんしんどい