太陽のぎらつく水曜日の昼

 先週書いた通り、今日ははてなブックマークの記事の振り返りとか、書いてる途中のやつとかはひとまず置いといて、ちょっと日記らしいことを書いてみようと思う。

 まず、このブログで書いた記事が、今回でちょうど40になる。書いて更新したあと消したやつなんかも4,5本あるから、書いた数で言えば“ちょうど”ではないんだけど、まあその辺りについては細かいことはいい。重要なのは、自分にとってひとつ、区切りをつけるのにいいタイミングだったということだ。

 自分は成人するまでの自己形成の過程の中でかなり深くネットの文化や情報というものに浸かっていた、という自覚があって、実際、自分という人間の変遷というものを語ろうと思った時に、インターネットやPCといったものとの関わりは間違いなく言及するだろうし、言及しなければ語りえないだろうというほどに、自分の入れ込み具合は凄まじいものだった。一般に思春とか、青春とか呼ばれる期間の間、自分は現実での環境の多くに不満があったし、同時にその不満を解消するだけの能力もなく、そこから発される抑圧の拠り所となるような人間関係にも乏しかった。ゆえに、こうした境遇にある人間の多くがそうだったように、ネットで構築された人間関係やそこから垣間見ることの出来る知識や世界というものに、普通の人とは比べ物にならないほど重きを置いていた。そうした中で自分は年齢を重ね、成人して、今でも自分の生活において、ネットというものは重要な位置を占めているし、その点に関してはこれからもさして揺らぐことがないだろうという確信がある。

 けれどもこの1年ほどの間で、これまで持っていた自分のネットに対する信頼感だとか、これまでに自分や自分に近い人たちが持ち続けていたネットに対する共通認識みたいなものへの考え方は、明確に変わってしまったな、と率直に思う。ほんとうはこの点について論理に沿って自分なりに説明することでひとつ、区切りをつけようと思っていたのだけれど、どうにもまとまりきらなかった。これについてはひとまずさておいて、率直に自分が今抱いていることを、主観で書くことのできる範囲を踏まえつつ書くほかにない。

 先にざっくりと自分が今考えていること、今言いたいことをまとめてしまうとすれば、つまり次のようなことーーこれまで共通認識として広くあったらしい“現実とは隔絶された居心地のよい仮想空間”としてのインターネットというものは、かつてのネット領域でのみ成立し得た一種の幻想でしかなかったということだ。

 思うに、今、こうしたことを考えている人は(自分と同世代の人間では少ないかもしれないにせよ)かなり多いんじゃないだろうか。自分が情報収集の軸としているはてなブックマーク界隈においても、ゼロ年代からのユーザを中心に「はてな村の終焉」だとかいったフレーズが、古いネットコミュニティの終末を示すものとしてしばしば用いられてきているし、現在の多くのユーザを取り巻くネットという領域について、かつてそこの領域を本丸としていた人たちの口から多くの問題点が指摘されるようになってきている。おそらく、その考えに至るまでの着眼点は必ずしも一致しない、むしろ一致しないことのほうが多いだろう。というのは、なにも自分が今書いているはてなブックマークや、最近出戻りしたTwitterなどだけでの問題ではなく、“ネット”と呼ばれる領域上に存在するすべてのコミュニティにおいて、多かれ少なかれ発生している問題――言ってみれば、“ネット”それ自体に内在している欠陥だというふうに自分は考えているからだ。

 おそらくは、これまでネットという領域に踏み込んでいった人たちのほとんどは、自分を含め、先に書いたような“現実とは隔絶された居心地のよい仮想空間”として役割をネットに求めていた、或いはそういった考えが多勢であるネットのコミュニティに自身を適応させながら生きていたんじゃないだろうか。そしてその積み重ねの結果として、今日の固定観念的な“ネット観”が醸成されたのではないだろうか。

 現在ネット出身のライターが物理書籍を上梓したり、動画サイトで動画をアップしているだけだった、ごく狭いコミュニティにおける人気者だった人間が、今日ではテレビや映画のスターのように多数の人々にもてはやされているのを見れば分かるように、実際のところ、多くの人が抱いている“ネット観”ほどネットと現実との間には大きな隔たりは存在していない。それらはブルースとジャズのように、昼と夜との間のように、グラデーションの積み重ねによって成り立っているもので、そこから得られる差というのは、ある点と点を拾いあげた結果でしかない。ネットと現実は、地続きの存在だ。

 そして、現実と同じ態度でもってネットで活動する人間、或いは何かしらの架空の名前を伴いながらも、実質的には明確に現実とネットを結びつけてネットで活動している人間が増えた現在のネット領域においては、かつてのような仮想空間としてのネット観はもはや成立し得ないし、成立させようとしたところで必ず何かしらの齟齬が発生してしまう。現に、それが原因と思われる問題がそこかしこで発生してきているなと自分は感じている。とりわけ、古くは反現実・反権威の一つの流れとして生まれたらしいネットの攻撃的な愛国主義や熱烈な嫌韓・嫌中が、現在ではネット特有の無責任さを保持しながら同時に現実の領域にまで大きな影響を及ぼしているのなんかは、まさにその典型のように思える。もう既にネットと現実との関係性は不可逆的な変化の真っ只中にあり、施策抜きに何かを解決することなど、もはや不可能なのだ。

 話を自分自身の方に戻そう。上に示したようなこと――これまで自分が持っていたネット観やネットという領域で触れてきたものについての総括は、何も他人に限った話ではなく、自分自身についても、必要なことだと思う。自分はまだ気付いただけに過ぎず、まだ何も思い成してはいないからだ。

 先月の時点では、この辺りについてはまだまだはっきりとしていなかったのだけれど、自主制作のWebコミックの掲載サイトの跡地をチェックしたり、先の論争における某ドワンゴ代表取締役の動向とかを見ていて、これは自分にとって間違いなく必要な作業だな、と思うようになった。

 もともとこのブログで記事を書くことが、メインのブログを維持する上で負担になっている側面がかなりあったので、こちらのブログに関しては何かしらの区切りをつけて終わりとしたいと思う。それ以降でもはてブに関しては続けるつもりだから、不定期で何かしら書くかも知れないけれど。これくらい掘り下げた記事となると、どうにも書く内容それ自体が、深く掘り下げていくうちに自分それ自体の話――要するにメインの方でやっている話とかぶりがちで、どうにもまとまりがつかない(メインのブログほど率直になれず、ここほどには外の話題に積極的に触込んでいくことができない)。より話を概念化したうえで、メインでちゃんと書くのが最も望ましいな、という感じがする。

 とにかくこの辺の話は一日頭を捻り上げたくらいじゃ到底収拾がつかないな、というのが、今回丸一日と半分潰して文章を書き続けた感想。4月の半ば頃から、季節の変わり目というのもあってひどい不眠が続いていて、どんなに身体がぐったりしてても2,3時間通しで寝るのがやっとと言った具合だったのだけれど、昨日・今日に関しては、ほとんどぶっ続けで8時間眠った。今もめちゃくちゃ頭が熱くてぼんやりとしてるし、この後も少しはよく眠れるんじゃないだろうか。

 それじゃあ今日はここまで。つよく生きてこう。