私的使用を指摘しよう、公的使用を更迭しよう

 日曜に書いた記事が長くなったので分割して整理しなおしたやつ。 最近のはてブで盛り上がってる話とかについて少し。はてブと言うよりはネットで繰り広げられている議論(の体をとった罵り合い)全般で言えるでもあると思うのだけれど、あんまり範囲をデカくしてもアレなので、はてブでの話を筋として書いていく。


 これは政治関連の記事のブックマークページなんかでよく見られることなのだけれど、自分と異なる意見を持った別サイドからのなにかしらの指摘に対して「それに該当する人間を屏風から出してほしい」とか「そんなことを言う人がどこにいるのか教えて欲しい(まあ、あなたの脳内にしか存在しないんだろうけど、といった皮肉の体を取った中傷もしばしば付与される)」だとかいったコメントを付けてスターを集めている人をしばしば見かけるのだけれども、彼らはこれがとても危ない物言いである、ということを分かっているんだろうか。
 彼らが言いたいのは要するに「意見を異にする人々の指摘は単なる藁人形論法で、指摘として取るに足らないものだ」と言うことなんだろうけれど、そう言いたいがために前述のような弁を取るのは、正直なところとても危ういと言わざるを得ない。
 なぜなら、相手の指摘がどれだけ極端な内容であれ、藁人形論法的であれ、「そうした極端な人間は存在しない」などとまで言うのはさすがにあまりにも雑な、誤謬を内包した論理だと言わざるを得ない。というのは、どんな世界、どんな属性、どんな集団においても、極端な思想を携え、あまつさえそれが正当だと勘違いしているような人間はつねにある程度存在するからだ。
 彼らは自分と意見を同じくするものたちの集団はあらゆる面において常に自分と同じ意見を持っているのだ、とかそういったふうに思っているのかもしれないけれど、そうした不適切な認識は、正当な論理さえ非論理に変えてしまいかねない。彼らの「そんな人間は存在しない」という雑な反論は、それが自分と意見を同じくする集団の大多数の意見を、ごく一部の極端な人間の極端な思想と同一視させるような相手側のチェリーピッキング――たとえば、ツイッターで批判と罵言との区別もつけられないような無知蒙昧を取り上げて「ほら、やはりあいつらは皆ろくでもないやつだ」といったような物言い――を許すことになるからだ。
 これは、自分と意見を異にする人らならともかく、自分と似通った意見の人らがやりだすと本当に困る。逆側の人間はここぞとばかりにそこをねちねちやり出して話は進まないし、こうなると指摘された本人も雑な反論に雑な注釈をつけてみたり、しょうもない中傷合戦にまで話を落としてしまったりとろくでもない態度しか取れなくなる。まったく馬鹿げている。

 さらに言えば、こうした物言いをする人々はしばしば「藁人形論法である」という指摘を「藁人形論法的に用いている」ことが少なくない。というのは、こうした雑な論理を得意顔で振る舞う人々というのは、「それは藁人形論法だ」とか「その指摘は不適切だ」とか言った物言いを、論理の検討なしに、ただ単に“相手の指摘を封じ込める道具”かのように解釈している場合がままあるからだ。おそらくそうした人々は、他の論題においての他の人のコメントから形だけ拝借し、見よう見まねでコメントしているうちにそれ自体が藁人形論法だということもわからないまま、お題目的に「藁人形だ」とか「○○を屏風から出してみろ」などと書くようになってしまったのだろう。
 こうした雑な、あまりにも雑な反論がさもまっとうな反論かのようにみなされてしまっている原因についても少し考えてみる。
 まず、自分含め、思想、スタンス、立場、属する集団に依らず、ほとんどの人間はデータを集める、相手の二重規範を探すといったような手間を掛けて相手の論理的誤謬を指摘しかえしたり、反論しようとしたりすることはそれほど多くない。これは、我々は論理に立ち、いかにも知的なことやっているぞという顔をしてはいても、実際のところ、それぞれに論題も問題意識も立場や前提さえもまともに共有しないまま、万人が万人に対して言いたいことを言っているだけの状況――いわば“議論ごっこ”をやっているからにすぎないからだろう。なかばもやもやしている相手の指摘や言説に対しても、その指摘を反芻し適切な反論を練ろうと思う人間はそれほど多くない。すると、ホットエントリーに挙がる数十の記事の中で自分の意見を述べ存在感を示そうとする人間のほとんどは必然的に「いかにももっともらしく見える理屈」に服従しがちになる(古代ギリシアの時代のことように思えるかもしれないが、これは紛れもなく現代においても重大な問題だ)。すると、冷静に考えてみれば呆れるほど危うい、詭弁的物言いであったとしても「それが反論され、自分の誤謬が多数の耳目を集め、嘲笑されるようなことさえないのであれば」彼らにとってはなんの問題もないのだ。それどころか「いかにももっともらしく見える理屈」や中傷と大差ない手厳しい“批難”は、むしろ他者の賛同を集めやすく、自分の自意識も大いに満たされる。「論理に則ったまっとうな反論さえなければ」これほど便利なものもそうないだろう(だからこそ詭弁が蔓延るわけだ)。
 また実際、この指摘に対する反論は、理屈は単純なだけに面倒くさい。まず反証となる例を自分の力で見つける必要があり、さらに(はてなブックマークの場合は)そこからidコールを付けて反論コメントを書く。その場合多くはコメントをメタブックマークする形になるわけだけれども、こうした場合他人の耳目を集めることは少なく、多くはそれが「危うい論理である」ということを本人に指摘するだけにとどまる。それが詭弁であると理解していない、ある意味では無垢な人たちは大いに反論に反論を返し、結果的には自分の物言いの危うさに気づくこともあるだろうし、比較的穏健な人々はいくつかのやりとりのみでこちらのコメントを受け容れてくれることもあるけれど、半ば意図的にやっているような人間の場合やそもそも承認欲求有りきで初めから人の意見など聞く気のない人間は、いかにも承服しましたといったような体でスターを付けたりすることはあっても、その実は何一つとして承服していなかったりする。そうなるとその詭弁は多数の「いかにももっともらしく見える理屈」に追従する多数の人間の目には届かないばかりか、本人の自覚さえ促されないままに終わる(自分は主に男女問題についての論争で、よくこの例を経験している)。こうなると、真っ当な論理を携えて反駁した人間に与えられるのは徒労感だけなのだ。こうなると、もはや何度もこうした詭弁に反論を加えようという気にはなれないだろう。少なくとも、私はもうその人たちに誤りを指摘しようという気にはなれない。
 しかしながら、次のようなことは間違いなく言えるだろうし、この場にはっきりと書かせてもらう。こうした詭弁は自分の自意識を満たすマスターベーションのいち手段として有用ではあっても、それを用いている彼らが本当に望んでいるであろう「論理の上に立つ人間」という目標地点からはむしろ遠ざかる行為なのだ。こうした物言いは結果的には考えを異にする者を利し、考えを同じくする者からは冷笑を買うことになるような振る舞いであるということを、彼らはできるだけはやく気づく必要がある。


 以上。
 なんかここのところ、その界隈のブコメを見てると政治系の記事にあれこれ書いてスター数やら自意識やら高めてる人らの気持ちがよく分からん。先日ブックマークしたチンギス・ハーンの肖像をネタにしたギャグ漫画が抗議を受けたって記事でも、年初に顔の黒塗りの関連の記事で、抗議の声を皮肉めいた調子で反発していた人がここではモンゴル史的な視点から抗議の声を擁護していたり(この転換については、むしろ賛意を表したいくらいだけれど)、逆に男女問題関連の問題で女性の擁護者だった人が*1チンギス・ハーンヒトラー的な軍事的侵略者だと見做し、こうした扱いを受けるのは正当だといったような、世界史を現代思想的な観点で一方的に断罪したあげく、単にギャグ要素として消化されたに過ぎないはずの肖像画への落書きをわざわざ意図的なモンゴル蔑視であったかのように語り、むしろ抗議の声を正当化させてしまうような不可思議な論理立てをしていたり*2で、わけがわからん。
 もちろん自分は極力党派性ありきで人を色分けしないようにしてきたつもりだったし、人よりかはいくらかその努力が功を奏している、という自信も持っているけれど、その時々でここまで極端に考え方が変わるのか、と思うとなんだか本当にめまいがしてくる。後者に至っては中の人変わってんの?ってレベルの物言いだし、しかもユーザページに飛ぶとその記事のコメントの前後で侮蔑語を用いての右翼批判までやってるし。すごい物言いだろ。同一人物なんだぜ。それで……(上杉達也)
 なんというかネットって疲れるんだなって、ネット歴十余年にして初めて感じるようになった。もう自分ネット向いてないかも知れんなこれは。はー帝国書院帝国書院

*1:ちょこちょこブコメにスターを貰ったりしてた

*2:さらに言えばその人物がチンギス・ハーンと混同しているらしい第三代ハーンのフビライが建てた元はむしろ他の漢人および漢人を称する他の中国の歴代王朝と比してもむしろ階層性、民族差別的色合いに乏しく、侵略者であるという観点からモンゴル帝国ヒトラーと同一視するのはあまりにも雑(色目人 - Wikipedia)。おそらくその人物は中学レベルの世界史知識さえちゃんと踏まえずに反発ありきでてきとうに論理を組んでいる