まもなく再び飽満の時期が来て

 はてなダイアリーはてなハイクがサービス終了ということで、先日「はてなの本」という2004年に出版された、当時「はてなダイアリー正式リリース」「はてなダイアリーキーワード」「はてなグループ」など新サービス、新機能を矢継ぎ早に打ち出してまさしく新世代のソーシャルネットワークベンチャーとして名を広めていた頃のはてなの様相と、当時のはてなダイアリーの機能・活用法に関する案内などを記録した本を読んでいた。
 この辺のことについてあれこれ書くには一番いい時期だと思うので、今日はこの本を軸に少し個人的にいろいろ考えたこととかを書いてみる。本の詳細についてははてなが公式で紹介しているので上のリンクを参照のこと。リンク先にはてな公式のアフィリエイトタグ入りのamazonリンクがあるので、商品リンクについてもこちらを参照するといいかもしれない。

 それじゃあさっそく本題に。
 上にざっとこの「はてなの本」に関する概説を書いたのだけれど、ここでは株式会社はてな社長(当時、現在は非常勤取締役および株式会社OND社長)である近藤淳也(jkondo)への三万字インタビューが載せてあってそこから当時のIT企業界隈での技術的流行や当時隆盛だったソーシャルネットワーク系サービスの名前などが色々挙がっていて、当時のこの手の業界の空気感だとか、当時株式会社はてながどういう見立てを持って色々やっていたのかがまとまった状態で読めるようになっている。このインタビュー内でも書かれている通り、この手の他の企業と比べてもはてなは運営方針であるとか、サービス設計であるとかを積極的にユーザ側に明示して双方向的にサービス開発をやっているので、案外この辺のことはウェブサイトなどでも読めるのだけれど、やはり当事者自身の言というのは大きい。はてブオフ、はてなブログ互助会、はてな村奇譚なんか隆盛だった時期(2014-2016年)くらいにはこの辺の総括がいろいろ成されていて、それなりに興味深かったにせよ、基本的にはいちユーザであり、同時に色々な思い出補正も含めた回顧録としての趣が強く、有名なはてなユーザが何か書いて、それがはてなブックマークに挙がるたびに「いやそれは違う」なんて指摘が入るといった具合で、面白い回顧録以上の価値はあまりなかった。

 自分はブログサービスで文章を書きはじめてから割と長い(今年で10年目になる)のだけれど、もともとはてなダイアリーを使っていたわけではなかったので、この辺の事情にはかなり疎かった。こちらに写ってきたのは2012年だか2013年だかの年末頃。はてな記法や自動バックアップ機能などの編集補助機能とブログデザインのいじりやすさが主な移行理由で、2015年の春頃にそこからさらにブログに写ってきた。はてなブログが特有の文化圏を持っている、というのを知ったのはこの(自分にとっての)ダイアリー後期からはてなブログ移行期だった。おそらくははてなブックマークを本格的に使いだしたのもこの頃。ちなみに、もともとメインのアカウントでやっていたものをはてなブックマークアカウントを独立したものとして取り扱うためにこのアカウントが生まれることになった。ゆえに、ブログ10年目というのはこのブログのことではない。とはいえ、このブログも書き始めて3年目だから、既に三日坊主や勢いだけのブログという具合でもなくなってきているのだけれど。
 話を戻すけれど、とにかくこういった具合だったこともあってこのゼロ年代初頭。さらに言えばまだPCを軸にして展開されるネットワークサービスがほとんどだったこの時期におけるネットワークについてのある程度体系だった話というのは本当に貴重で、とくに自分が読んでいて以外だったのは現在でもしばしば用いられる「はてな村」という(揶揄的な)呼称が、このはてなダイアリー草創期にあってすでに生まれていたこと――さらに言えば、そうしたごく初期に生まれた呼称が現在でも読み手の間で認知されている共有ワードとして扱われていることだった。

 自分が以前使っていたサービスはどちらかというとかなり豪勢で、外向きに色々やっていたサービス(わかる人ならどのブログサービスを使っていたか判ると思う)だったので、コミュニティとしての機能は多分に盛り込まれ、大いに活用されていたにせよ「ある程度の共通認識を持った独自の文化圏(コミュニティ)で活動している」みたいな意識はまったくなかったし、実際そんな意識を持ってものを書いている人なんかいなかったから、これは中々に衝撃的なことだった。今日では、こうした共通認識みたいなものは、他のSNSと同様希薄になりつつあるし、自分自身も「はてなユーザとしての矜持」みたいなのは特にないので別にこうしたはてな文化史みたいなのをことさら支持するわけではないけれど、それはそれとして、SNS過渡期の面白い現象としてもっと省みられてもいいのかもしれない、とも思う。
 さらにこの本では、この「はてな村」のワードとそれを軸とした特有の文化的特色の地盤にまさしくはてな生みの親たるjkondo氏の積極的な双方向的なアップデートあってこそのもので、ここでは"直接民主主義"というのを重要キーワードとして挙げつつ「はてなダイアリーキーワード」「はてなグループ」リリースまでの変遷を追っている。「はてな村」という呼称の存在に次いで自分にとって目新しかったのがこの「『はてなダイアリーキーワード(現はてなキーワード)』が、当時のはてなのサービスにおいて重要な役割を担っていた」という点だった。自分がはてなダイアリーに移住してきた時点で、すでにはてなブログは生まれていたし、はてなダイアリーキーワードは現在の「はてなキーワード」に改称され、既にWikipediaの類似サービスといった趣になっていたし、そこでの各種ワード記事の多くは、いずれもお世辞にも辞書サイトとして役立つような種類のものではなくて、自分はほとんど価値を感じていなかったのだけれど――なるほど、もともともの用途が「Web百科事典」でなかったのなら、ああいった具合になったことも頷ける。

 一応自分と同様、こうした経緯を知らない人のために簡単に説明を書いておく。
 現在でも盛んに用いられているid記法によるrefer(言及)が、はてなユーザ間のみ可能という限定的な機能ながらユーザ間のやりとりや議論を促進させるのに一役買っているけれど、こちらはidコールという明示的行為によって他者と自分とを結びつける行為であるがゆえに、関係構築の第一手段としてはやや大胆に過ぎ、idコールを敬遠するユーザも初期から現在にかけて少なからずいた。それに対して新たにリリースされた「はてなダイアリーキーワード」は書いた文章のうち固有名詞など特定のワードが自動的に「はてなキーワード」にリンクされ、共通のワードを含むブログと共にリストアップされる仕組みをとっているため、主体的に共通の趣味を持つユーザを探したりしなくとも、idコールによる明示的な言及に億劫なユーザであっても気軽かつ安心して他のユーザと関わり合うきっかけを作ることができた。まだ手探り状態の強かった初期はてなのネットコミュニティ形成に、こうしたすこし迂遠ではあれ、心理的抵抗の少ない「繋がり合い」のための手段が大きな効果をあげた、というわけだ。
 この他にもWikipedia等の辞書サイトと比してくだけたノリ、今ではニコニコ大百科がその位置を占めているような軟派な雰囲気も当時は目新しかったようで、ここでは近藤氏が「オンドゥル語」等のキーワードについても言及していたりする。なつかしい。

 しかしながら、はてなブログの成立、ブログよりもより手軽かつ広範に訴求可能なオンラインサービス――Twitter, tumblrのようなミニブログなんていうふうに言われていた新しいブログ系サービスやfacebookのような実名ベース・現実ベースのSNSスマートフォンアプリを軸にしたInstagram, tiktok, Snapchatなど――が台頭し、今ではかつてのブログが座っていたような、あるいはそれ以上の立ち位置を占めるようになった現在では、「ブログ」という様式にせよサービスであるにせよ、開発者にせよユーザ側にせよ、かなりいろいろな面で事情が変わってきている。
 ブログそのものが現在のネットコミュニティにおいて蚊帳の外に置かれるようになったというわけではないにせよ、この時期に見られていたブログという形式が持つ「カジュアルさ」のようなものはすでに現在においては希薄になっている。既にブログよりカジュアルなSNSはいくらでもあり、わざわざブログというものを選択する意義は乏しいし、テキストサイトやブログ出身の人間がフリーライターとして各種ネットマガジンなどでブログに近い方式で記事を書いていたり、キュレーションサイトなどがSEOを駆使して「お役立ち情報系(実際に役立つとは言っていない)」面で大きな位置を占めていて、個人のブログが日の目を見る局面はもはや多くはない。。現に、はてなブックマークなどで挙がるブログサイトの多くは炎上やトラブル案件、はてなに関する議論などのほかでは先に示したような記事が大半を占めており、既に「(一般の)個人の文章」というのは求められていないし、それらが何らかの価値を帯びて言及されたり共有されるようなことが起こったとしても、その時に用いられるのはTwitterのような「ブログよりもカジュアルなオンラインサービス」であって、そのブログサービス自身ではないのだ。
 つまり、この本で示されているようなユーザとの双方向的な開発態度は、今日のブログサービスが置かれている状況においてはあまり大きな意味をなさないわけだ。はてなブログ成立前後では「はてなの本」でも語られているエクストリーム・プログラミング方式で考案されてきたらしい各種新規サービスが軒並み頓挫していると同時に、"直接民主主義"的な思想からかなり離れた巨大SNSがいくつか構築されているという現況を改めて省みて、「時代は変わったんだな」としみじみと感じざるを得なかった。

 近藤氏については、はてなから一線を退いて以後ははてなのコンテンツだった「物件ファン」を譲り受けてちょこちょこやっているとかで、その辺を見ていると小規模で”直接民主主義志向”の思想は今でも結構あったりするのかな、なんていうふうにも思った。現在の株式会社はてなの方では既に次の段階にコマを進めているみたいなので、自分はどうなるんだろう、と思いながらその変遷をはてなブログはてなブックマークか見守る程度かなあ。


 はい、感想ここまで。占めて4500文字なり。あんまり見立てを立てずに書いたのもあってややまとまりがないけれどもひとまずこれでいい。
 ひとまず自分にとっての「旧はてな」「カジュアルなウェブサービスとしてのブログ」みたいなものはもうこの辺でいいのかな、という独りよがりな総括をここで出来たのでよかった。今、色々こうやってネット上で文章を残すこと、自分の生活を記録することについて色々うんうん言いながら考えているところだったし、いい時期にいいものを読めたと思う。このブログもそろそろ畳むべきかな、とかそういう話も一緒に書くつもりだったのだけれどかなり文章が膨れ上がってしまったので今日はここまでにしておく。
 もう3月半ばか。

声と態度は輪をかけて

 久々の更新。とは言っても、3ヶ月ちょっとといったところだからそれほど長い期間でもないのだけれど。ゆるくブログ書いてる人ならこんなもんではないか。
 今日何か書くのも、それほど深い意味はない。前の記事が結構情緒的な内容だったから、それがずっとトップに居座ってるのもなと思ったのと、たしかはてなブログは3-4ヶ月くらい放置してるとbodyタグ部分のトップに広告が設定されるようになっていたはずだったので、せっかくだからなにか書くかなと思った次第。

生活の方は万事快調というほど良くはなく、かといってひどい有様と言うほど悪いわけでもなく、ひとまず期待している成果のうちの中の下くらいまでは堅実に出ていて、まあ不満を持つのは贅沢にせよ、かと言って手放しで喜ぶには志が低すぎるといったような微妙な具合で進行している。この数年くらいの間はずっとそんな具合で、いつになったら見えるものが見えてくるのか分からないのがなかなかストレスになる。

 それで、3ヶ月ほど放置していたわけなんだけれども(はてブ界隈には、ままよくいた)、この間に結構アクセスが伸びていた。さらに言えば、週一の頻度で更新し続けていた一年ほどの期間よりも、放置していた3ヶ月間で得たアクセス数のほうが多い。これは、喜ぶべきところなんだろうか?
 アクセスが集まったのは主に6月の初めに書いたアニメの感想記事で、どうやらそのアニメのキャラクター名で検索するとこの記事が1ページ目に挙がってくるらしい。人気を集めにくい立ち位置のキャラクターではあったけれども、こんな泡沫ブログの中の泡沫みたいなブログの記事がそんな良い位置に来てしまうくらい人気がないということなんだろうか。それとも、単純にもう、ブログ全盛期のようにアニメの感想を数千字かけて書く、という行為自体があまり主流ではない、ということなんだろうか。Twitterとかでその向きのフォロワー経由で長ったらしくてやや情緒的なアニメの考察ツイートが連投で回ってきたりするのを見るに、文章量そのものが忌避されているということではないと思うんだけれども……それとも、単純にコンテンツにアクセスするまでの手間が少ないものが耳目を集めている、というだけのことなのかね。かつてそういう領域の最前線にいたのがブログで、現在は短文投稿型SNSという。
 自分は割と、ブログの近すぎず遠すぎない距離感とか、ひとまとまりの洗練された(洗練させるかいなかは書き手の熱意の程度に依る部分ではあるけれど)文章を読めるところとか、今のSNSのように「見せる相手がいる前提」ではないところ、「読みたい人と思っている人だけが読みに来てくれる」というところが好きで、Twitterの隆盛から一過性に過ぎなかった”ブログ(ネットライター)で稼ぐ”という旗印の下の2012~2016年くらいまでのブログ再興の流れが終わった今でも、やっぱりこういう環境があるのはいいものだな、と心から思っていたりする。だからこういうふうに、自分が見せつけるのではなくあらかじめそのコンテンツについての記事を求めている人がいて、そういう人の主体的な意志と動作とによってここまで来て読んでくれるというのは、素直に嬉しく思ったりする。もちろんそれだけの手間をかけたからといって、必ずしもその記事にアクセスした人全員が自分の記事を読んで満足したとは限らないけれどね。

 今年に入ってからは全般的に今のネットの流れというのが気に入らなくなってきてて、はてブTwitterその他諸々のソーシャルネットワークからはある程度距離を置いているのだけれども、こういう場所でひとり細々と文章を書き続けていくことだけは、これまでと変わらない調子で続けていきたいし、その道程が平穏であるといいなと思っているのだけれど、はてさて、これからどうなっていくんだろうね。
 それじゃあ、また3ヶ月後くらいに。

つまりこうなんだ結局。人間が――

 ひとまず、ブログの更新を停める。ブクマの整理は予定通り6ヶ月ー10ヶ月分くらいはやる気でいるけれども、その他の記事については書くのをやめるつもりでいる。一応書いておくけど、これは「ネタがないから書けそうにない」とか「書きたいことがあれば書く」とかではない。「極力書かないように努める(自分自身が持ちうる時間的、体力的資源を、ここに何かを書く、という作業によって失わないようにする)」ということ。
 べつにここで自分個人の身の上話だの、最近の具体的近況なんかを書いたところで何かしらの意味が発生するわけでもないから、その辺の事情については端折る。誰にだって、現実と生活とはあるし、そうしたもののために自分自身で持っている時間と能力のほとんどを注ぎこまなくちゃならない、という局面はある。他の誰かのそれと自分のそれとで、何か大きな違いがあるとは思っていないし、実際、違いなんかない。

 ただ、自分にとってはほんとうに、まったく予期しない事態になった、というのはたしかで、とにかく今はしんどい。ここでなにかものを書くたびにしんどいしんどいと書いていたような気がするけど、今回のそれはほんとうにしんどい。とにかくしんどい。てきとうな事を書いているといざというとき信用されなくなるってのはこういうことか、狼少年とはこういうことか、とかそういうことを考えさせられるくらいにはしんどい。

 ちまちまと書き進めていたインターネットのコミュニケーションや討論の構造がどうとかって私見に関しては、メインのほうでやる。この数ヶ月ほどのあいだ、どうにもメインの方で書いていることが一向に進行せず、それに反比例してこっちで書いていることの規模や、自分にとっての深刻さの度合いみたいなものが日毎大きくなっていて、ずっとその不均衡が気持ち悪かった。残念なことに、自分の頭じゃあ、こういう複数の進行作業を適切な釣り合いが保たれることをよくよく意識しながら適切に執り行うっていうような、そんな高度な作業はできないらしい。
 なんでも器用にあれこれできないのなら、自分がいま一番やらなくちゃいけないことに、自分の持ちうる資源を全部投入するのが一番いい。少なくとも、この状態ででかい作業を終りが見えない状態でいくつも抱え込んだままでいると、ほんとに近く気が滅入ってどうにもならなくなる。

 別に、ここで何かを書く作業をするというのがしんどかったとか、何かしらの義務心に囚われた状態で書いていたとかっていうことはない。まったくないとも言わないけれど、ゆるい義務心と使命感というのは、その日その日を生きるためには必要ではないけれど数十年という時間を生きる人間として、独立した個人として生きるために必要な作業をこなしていくために、少なからず必要なものだ。少なくとも、自分はそう思ってる。

 それから、ここで文章を書いていて、はっと気付かされたようなこと――それも今年に入って以降の自分の生活で得られた知見のうちの最上のものだとさえ感じているようなこと――が、ひとつある。
 それは、自分がある程度外の世界を意識して何かを語っているときでさえ、他者に向けて何かを書こうとしているときでさえ、その行動の究極的な到達点は常に自分自身であり、自分自身を理解し、自分自身に対して語りかけることを目指しているのだ――と、そういったようなことだ。自分はここで一年(このちょうど一年、というのはまったくの偶然のことで、意図していなかった)で、これまで軸足を置いて書いていた個人的な記録と比べて、かなり第三者を意識して書いていた。別にブログでお金を稼ごうとか、はてなブックマーク界隈に割り込んで、社会の時事問題について盛んにあれこれご高説を垂れてやり、なんならこの界隈で結構な地位を占めてちやほやされたいなんて思っていたわけじゃない。外に向けて、他者を意識してテキストを発信していたのは紛れもない事実だけれども、それが何かしらの形での実入りを期待してそうしたわけじゃない。それは、これまでの記事につけてきた、SEOの真逆を往くような、バカげた中身のない記事の題名を見直してもらえればすぐ分かることだ。
 自己分析じみたことを書くのは極力避けるけれど、要するに自分がほんとうに望んているのは、自分が今持っている、ある意味ではバカげた目標や展望をひとつひとつ着実に達成し、自己実現を果たすこと。そこにあったのだな、と今いろいろなことをまた、振り返り直してみて思う。それは自分の理想と現実との隙間を埋め、自分自身の純粋な理性のともとで自分自身を承認することにほかならず、他人がそれをどう評価するか、というのはまったく問題にならない。重要なのは、重大なのはそれだけだった。

 人によっては、ここまでに書いてきたようなことを読んで、「なんて子供じみた、行きおくれの懊悩なんだろう!」と思ったかもしれないけれど、自分は別にそう思ってもらってもいい。実際残念なことに、自分はまだそのことが見えていなかった。けれども。自分は行きおくれ、生きおくれたかもしれないけれども、少なくとも今このことで整理をつけることができれば、これ以上には生きおくれることはない。自分のようなできの悪い人間には、これだってまったく上等なことだと思う。 

 他にも勢い余っていろいろ打ち込んだテキストがあるけれど、その辺はだいぶ感傷趣味が混じってきているな、という感じがあったのでざっくり削った。とはいっても、これでも結構な文量なのかもしれないけれど。でも、なんにしたってそういうものだ。自分が自分の満足するだけ、言葉を尽くして何かを語ろうとすれば当然そういうことになる。自分が長めの文章を書くことに慣れているから、弁舌を振るうことに慣れているからとかじゃない。自分がそれだけいろんなことをちゃんと説明したいと考えている、というその点にあるんだよ。他人がどうこう、能力がどうこうじゃない。自分なんだよ。分かるかね、ワトソン君?


追記 (2018/06/25 023:37): なんかはてな界隈が色々ととんでもないことになってきたな。で、そんな折にこの更新を見返してみると、ちょうどこのブログ辞める宣言がH氏の殺人事件の当日とおんなじで、文章なんかを読んでみても「件の事件で怖気づいたのでブログ止めます」宣言を迂遠で言い訳じみた感じで書いてるようにも読めて、自分の書いた記事ながら笑ってしまった。理由はめちゃくちゃ個人的な事情だし、更新ボタンを押して公開したのも18:12:20時点でのことだから、事件発生前なんだけど、証明できないっていう。まあ、偶然ながらすごく間のいい(悪い?)時期に区切りがついてしまったな、と思う。まったく、どいつもこいつも、めいっぱい生きような。