キットカットきっとぐにゃっと

個人ブログなんかためにならなくていいんだ上等だろ

ある作品が大衆を席巻するということに対する感動について

 とりあえず7日書きさえすればなんでもいい、と思っていたのだけれど、折角なので最後の7日目は割と真面目に文章を書いてみる。まあブログ開設してから昨日までのアクセス数10も行かなかったんだけど、ワハハ

 数日前に80年代の音楽と大衆文化を下敷きにしたvaporwaveというジャンルについて、それからその流れで今80年代文化の再評価の流れが来ている、というような話を書いていて、もともとそれほどがっつりまとめる気はなかったのだけれど、一応結構な文字数をかけてしまったこともあって翌日に読み物として耐えうる程度に形を整えたりした。その記事をひととおりまとめ終わった時に思ったのは、「“80年代の大衆文化”という語を繰り返し使って自分は文章を書いていたのだけれど、ではこの2010年代の場合はどうか。“2010年代の大衆文化”とは何なのか?」ということだった。
 自分が真っ先に思いついたのはスマートフォンタブレットなどの携帯情報端末の台頭と大規模なデータ通信がこの国のほぼ全域と行っていいくらいきわめて広い範囲に普及した、ということだった。けれど、よくよく考えてみると、それは単に一般の生活に影響をおよぼすような技術革新についての話でしかなく、大衆文化ではない。'00年代のパーソナルコンピュータの普及とドットコム・バブルや90年代のポリゴンを用いた3DCG、80年代のテレビ番組と家庭用コンピュータの普及のようなもので、技術や発想それ自体が大衆文化になるわけではなく、そうした技術や発想を一般大衆に受容させられるような結びつきおよび結びつきを生むもの、つまりは芸術作品のような存在があって初めてひとつの技術が“大衆文化”へとつながっていくのだろう。
 
 では、'10年代の携帯情報端末と通信技術の発達によって何が、どんな文化が生まれただろう?
 しかしながら、これらを出発点とする文化について考えてみると、種類こそ多いけれど、結果的にはひとつのまとまりをもった“文化”や時代を代表するような“芸術作品”などといったものは生まれず、技術革新によって生まれたらしい個々の事物を拾い上げてみた限りでは、むしろそうしたまとまりは失われ、分散してしまったように思える。
 現在では個人単位でも一般に遡及しうるだけの質を持ったゲームや映像コンテンツを制作することが出来るようになったし、実際個人で制作・発表されたゲームやイラストや動画が反響を呼び、結果として既存の出版者・販売会社を経て商業作品として発表される、なんてことは現在では珍しくもなんともないし、『個人で製作した』ということはもはや売り文句として以前ほど大きな力を持ちえない。それくらい既に大規模な集団・会社によって作られたものと個人レベルでの制作物とで、受容者の感想に決定的な差を及ぼすほどの質の差というのはなくなってきているのだ。
 こうした幅の広さは作り手に限らず、受け手も同じだ。受け手側もその作品が大きな会社によって作られたか、個人によって作られたかを極端に強く意識することは少ないし、さらに踏み込めば、もっと色んな差異――『国内で作られているものなのか、海外で作られているものなのか』『それが最近作られたものなのか、古い時代に作られたものなのか』『自分の文化的環境に見合うものなのか、全く異なるものなのか』『それが流行っているものなのか、流行っていないものなのか』――をいちいち気にしなくなってきている。これだけ情報通信技術が発達し、自分の周囲にないもの、海外の文化、過去の時代などについて知ることが容易になった今、受容者側にとって選択肢は限りなく多く、経済的問題による妥協こそあれ、自分の希望に沿わない作品にしか触れられない状況に甘んじなくてはいけない、ということはほとんどない。

 つまり、'10年代における技術革新である情報通信技術の拡大は、かつてそうだったような一般に受容されるような作品を生むための、生む出発点となるようなものではなかったということ――さらにいえば、ただそうでなかっただけではなく、むしろこれまでとは真逆の方向性へ進ませるものだった、ということだ。
 しかし、だからといって現在起こっているこれまでとは異なる流れを悲観視しなくてはいけないかというと、そんなことはない。ただ、'10年代に起こった技術革新は大衆を席巻するような作品の誕生に結びつかなかったというだけで、技術それ自体は作品を発表する側、作品に触れる側双方に大きな利益をもたらしている。それに社会自体が、そうした社会の主流派を狙った旧来の手法を考え直しある限定された人々、これまで顧みてこなかった層へ訴求していこうとする流れを肯定的に捉えている。それはここ数年政治・経済の分野で頻繁に用いられている『ダイバーシティ(多様性)』という単語から見ても明らかだし、先に書いた「まとまりは失われ、分散してしまった」という文章も、こんな消極的な書き方でなく「作品に多様性が見られるようになった」と書くべきだっただろう。



 さて、これまで新たに大衆を席巻する作品を作るための出発点だった技術革新というものが'10年代においてはそうでなくなったわけだけれど、では'10年代において、今の時代を生きる人たちが、今の時代を代表するものとして挙げられるような作品はなにもないのか。
 いや、ある。もしこれを10人ぽっちでも読んでいる人がいるとしたら、そのうちの何人かはここで書くよリも前に、場合によっては読み始めた時点から「'10年代を代表するものといえばこれがあるじゃないか」と思っていただろうと思うのだけれど――それは『君の名は。』だ。
 
 興行通信社が集計している資料*1によれば、2017/07/23時点で国内での興行収入は250億円で国内の歴代興行記録において第二位、出展はなかったものの、Wikipediaの記事では、全世界では400億円と出ている。これは言うまでもなく一大記録だ。また、一般への評価は現在でも続く盛り上がりのとおりきわめて良好であり、また極東アジアをはじめ、欧米諸国でも概ね好意的な評価を受けている。ヌーヴェル・ヴァーグでおなじみのカイエ・デュ・シネマ誌においても「これまで知られてこなかった彼へ正統的な評価をもたらすに値するものだ」*2と評されている。
 これほどの大記録を打ち立て、なおかつ好意的態度をもって迎えられた作品は'10年代においてこれまでにないし、今年と残りの2年のうちにこの作品の存在をうち消してしまえるような作品というのは、おそらく出てこないだろうと思う(出てきてくれたほうがいいには決まっているけれど)。

 ここから先に続ける前にあらかじめ書いておくと――自分は『君の名は。』を見ていない。批評も、あらすじさえまともに読んでない。自分がこれまでに書いたことのほかにこの作品について知っているのは、これは都会に住んでいる男子高校生と田舎に済む女子高生の身体が入れ替わる話で、話の後半になにかとても不思議で壮大な出来ごとが起き、それがとてもよいものらしいということ。監督は新海誠で、今回の作品も映像が幻想的でとても美しいという評判をとっているらしいということ。そして高い声をした男性がボーカルをやっているバンドが主題歌やら、背景音楽を作っているらしいということだけで、これまで書いてきたことは作品がどう見られているかを記したにすぎず、ここから先の文章でも、それは作品の出来栄えや評価についての話ではなく、この作品の存在それ自体と、この作品がある時代、というものについて思ったことに過ぎない。
 また、自分は別にある時代を代表するものたりえるような、立派な芸術作品というものが存在しなくてはならないと思っているわけじゃない。そもそも自分自身がすでに書いたような'10年代の多様性や個人主義という社会的潮流の中にどっぷり浸かり、またその潮流を少なからず肯定的に見ている人間で、この大記録を打ち立てた作品を自分が観に行かなかったのも、自分が傍流の人間であるという気色の悪い優越思想と紙一重の劣等感が少なからずあったからなのだ。

 けれど、自分の気持ちの悪い自意識を密かに噛み締めながらこの一年弱の間、この作品がもたらした社会現象をインターネット上や、人との会話や、街を出歩くなかで見、捉えた時に自分のなかに湧き起こるのは、決して後ろめたい感情ではなく――ひとつの作品がこれだけの現象を起こしている、という事実に対するまったく純粋な感動だった。
 すでに散々書いたとおり、現在はもう現在進行型のコンテンツ、国内のコンテンツ、商業として作られたコンテンツしか選択肢がない時代じゃなく、あらゆる情報を探し、アクセスすることができるのだ。SNS検索エンジンでなにか自分の事柄を検索すれば、自分と同じ趣味、同じ在住地域、同じ性別、同じ性的志向、同じ目標を持っている人間の存在を垣間見、また関わり合うことができる時代。色んなものを発信でき、色んなものを好きになることが出来る時代。一億人いれば一億通りの好きなものがあり、一億通りの『好き』があることを許される時代なのだ。
 そうした携帯情報端末と情報通信技術の拡大という'10年代の技術革新、そしてそれがもたらした文化的・娯楽的多様性の中であってなお、なにかひとつの作品がきわめて広い範囲に影響を及ぼしうることはあり得るし、またそうした魅力を感じるような作品に触れたいと思う意識が、ごく当たり前に、普遍的に存在するということに自分は素直に感動したのだった。


 '10年代の社会的潮流として今まさに起こっている『多様性』への動き、より個人や少数派を受容しようとする流れは、おそらくこれからも続くだろうと思うし、自分自身そうした流れを肯定的に捉えている。けれど、そうした動きと同時に強く自分がつよく期待している、夢みているのは、こうした広がりの先にあってもなお、きわめて多くの人間の心を鷲掴みにするような、そういった力をもつ作品が人々の前に現れることだ。
 もし多様性という考えの先、何十億通りもの『好き』と、『好き』が認められる世界の中でなお、そうしたものが生まれてくるのだとすれば、それはとてもすばらしいことのように思える。