キットカットきっとぐにゃっと

はてなブックマーカーには市民権をやらんと言われたので

身震いに報いるのにどれだけの後悔がいるのか

 先月書いたブログ記事*1で名前を挙げていたフランソワーズ・アルディのアルバムを一枚買ってきた。フレンチ・ポップス(イエイエ)歌手からシンガー・ソング・ライターへの移行期の3枚同時発売だったんだけど、まあとりあえずいちばん有名なのをってことで『さよならを教えて(Comment te dire adieu?)』を。他にももう一枚、別に前から欲しかったアトランティックの廉価盤を買ったんだけど、まあそれはここでは書かない。
 買ってきたのは都内某所のタワーレコードで、閉店間近の遅い時間帯だったんだけど案外普通に人がいた。

 何度か通しで聴いただけだけどなかなか好みでよかった。半分以上を既存の有名ポップスのカヴァーで占めつつ、編曲の妙もあって綺麗にまとまってて心地よい。とりわけ気に入ったのタイトルの『Comment te dire adieu?(さよならを教えて)』とオリジナルの『L'Anamour(愛の欠乏)』で、とくに『L'Anamour』はドラムスと重たいピアノの音がとてもよい。ただ、アルバムの後半にかけてちょっとストリングスがくどいな、と感じる。これはこの辺りの時代(50年代後半-60年代)のポップスに全般的に言えることで、べつにことさら取り上げる話でもないんだけど。
 自分はとりたてて楽器をやっていたわけじゃないので理論的に見てなぜそう思えるのかってのはよくわからないのだけれど、なんとなくストリングスが出張ってる歌曲って演歌とか歌謡チックに聴こえるよね。極端に叙情的というかなんというか。単に自分の中で「演歌・歌謡≒ダサい」みたいな固定観念があるのかもしれないけれど。ダスティ・スプリングフィールドの『ダスティ・イン・メンフィス』なんかもブルー・アイド・ソウルでは名盤中の名盤とされてるんだけど、これも個人的にはストリングスがくどくてハマりきれないやつ。これに関してはダスティ・スプリングフィールドのそれまでの音楽的立ち位置とそれに対する葛藤みたいなのを踏まえたうえで評価すべきなんだろうけど、それはそれとして自分にはあまりしっくり来なかった。
 
 話を戻すと、このアルバムの国内盤CDが出るのはどうやら2003年に出たCCCD盤以来らしく、廉価盤(税込1234円)ではあるんだけど、付属ブックレットはアルバム収録曲全ての和訳詞と新規書き下ろしの解説と、かなり気合が入ってる。英語ならともかくフランス語だと歌詞の内容とか全然分からないからね、ありがたい。
 解説の内容も細かくて良い(字数は5000-6000字程度)。一緒に買った廉価盤の方はジャケット裏見開き2ページきりで期待はずれだったんだけど、こっちは申し分ない内容。ただ『L'Anamour』の部分の解説で、「これは恋愛の移ろいを飛行機の乗り継ぎに例えた歌なのではなく、ドラッグを求めているのに手に入らない人間の破滅的な状況を飛行機に例えて歌った歌なのだ」といったようなことを書いていて、一応独自研究だと前置きしてはいるのだけれどこの部分はしっくり来なかった。で、解説者の名前で検索にかけたらブログとTwitterが挙がってきてプロフィールを見てみると、アナキストを自称していてアフリカン・ミュージックについての著作のある人物らしいので、まあ、その辺から想起されるところなんじゃないかなあ、という感想。作詞作曲を担当したセルジュ・ゲンズブールについての著作もあるらしいので、一応一家言ある人ではあるんだろうけれど。


 それからこれはとくに関係ない、どうでもいい話なんだけど、先日アルディとふたつほど上の世代に当たるジャンヌ・モローが亡くなったんだけど、そのニュースを聴いたときにどういうわけか不意にどっかで見聞きしたらしい“エヴァ・マリー・セイント”って名前が頭に思い浮かんで、誰だろうと思って調べたらヒッチコックの『北北西に進路を取れ』のヒロインで、まだ存命中だった。御年93歳だそうで、ほげー。
 40-60年代の人らって今見るとみんな等しくお爺さんお婆さんで、傍目に見ている限りは訃報を聞いても「まあお爺さん/お婆さんだからね」としか思わないんだけど、それぞれの最盛期を捉えていくとそれぞれ全然違う時代を生きてて不思議な気分になるよね。デヴィッド・ボウイグレン・フライの訃報が出る横で、エヴァ・マリー・セイントやドリス・デイが未だ生きてるわけなんだから。

トレーションの能力を激

 はてな市民はてな市民対応サービスを最低でもひと月あたり1回以上利用しないと維持されないらしいのでブログ書かないって書いたけど一週、二週おきくらいに一度適当に更新することにした(こいついっつも話が二転三転してんな)

 「自作PC始めたいんだけど」みたいな増田(これ: 自作PCの敷居…じゃなくてハードルが高い)が先日ホッテントリに上がっていたんだけど、この記事が上がってくるちょろっと前に10ヶ月ぶりくらいにPCの掃除をした。何年か前ミドルタワーのPCを掃除せずに放置したら電源部からキノコが生えてきたっていうようなそういう記事を読んだことがあるんだけど、10ヶ月程度ではそんな大したこともなく、ファン周りに結構ホコリが溜まってたという程度だった。エアダスターでバババーッと掃除して、あとはマザーボードの各種コネクタ類を無水エタノール染み込ませた綿棒で掃除。1時間とかからず終わった。
 まとめ買いのほうが圧倒的に安いやんけ!と思ってエアダスター3本まとめて買ったのに3本どころか1/3本も使わなくて笑った(笑えない) どうすんだこれ。

 それから、これは自分がその自作PCを始めたいという増田の記事を読んでて思ったんだけど、もうこれだけパーソナルコンピュータ(タブレットスマートフォンのようなものを含め)というものがこれだけ普及し、安価になった今でもわざわざ自作PCという選択肢を取ろう、という人って案外まだいるところにはいるんだね。
 パソコン自体がひと昔、ふた昔前と比べて格段に安くなったというのはもちろんのこと、動画やちょっとしたゲームをする程度なら、30000円も出せば十二分に満足できるようなタブレットを買えるしPCと比べても扱いやすいわけで、10年前はおろか5年前と比べても自作PCのコストパフォーマンスってめちゃくちゃ悪くなってるんだよね。自分が自作PCを始めた時点でも既に「昔ほどコスパは良くない」「BTOでいい」という声は結構あったし、多分PCの買い替え時期+自作PCをやってるTwitterのフォロワーの存在+『serial experiments lain』という3つの要素がたまたま噛み合ってなかったらやってなかった。

 もとの増田を見直してみると結構追記があって、どうやら自分がその手の知識に疎いために携帯ショップやら量販店で話の主導権を握れず悪い買い物をして後悔した経験があるようで。ゲームやらないのに自作に拘ってるあたりを見た感じ、はてなや2ちゃんみたいなギーク向けのネットコミュニティとかその手のアニメとかの影響や憧れみたいなのもありそうな気がするけど(自分も人のこと言えない)。
 せっかくなのでこの増田にはしっかり自作成功して楽しくPC生活を送ってほしい。まあ自分はブコメでちょろっと書いただけでなんも助言しなかったんだけどワハハ

伊藤智恵理とイェニチェリで韻を踏める

 はてなブックマークの政治・社会系の記事へのブックマークコメントがある種の党派的性質を帯び「党派性に準じたもっともらしい意見(コメント)を放つことで同じ党派に属する他者から承認(スター)を得る」↔「またスターを放つ側も、自分の思想および党派性に準じた意見にスターを放つ過程で、“自分は優れた意見をもっている”という承認を得る」という相互依存の関係のもとに、党派的性質・攻撃的性質を強める、という現象が(いつからかわからないが)起こっており、しかもこれはこれまではてな界隈がしばしば蔑視の対象としてきたYahoo!コメントユーザのそれときわめて近いものだ、というようなこと。それからそのことについて「個別意志が集団的性質を帯び、その集団によって・党派によってなにかを成そうとする時、それらは決していい結果をもたらさない」とルソーが社会契約論の中で書いているのを引用して、そうした態度が決して理性的な態度ではないことを数千字くらいかけて書いていたのだけれど、途中でやめにした。

 結局のところそれを書いたところで、その先ははてなブックマークの構造という、動かすにはとても難しく、また動かしたところで誰も幸せにはならない部分に切り込まなければならなくなるし、それ以外の面ではせいぜい彼らの態度は合理的でも、ルソーが打ち立てた民主主義および個別意志・一般意志の論理に沿うものでもないと指摘する程度のことしかできないことに気づいたのだ。
 別に自分は彼らが右派・左派なり男性主義・女性主義なりの意見を持つこと自体にはなんの不満もなく、自分自身の意見に沿おうが沿うまいがどうでもいいと思っているし、そもそも「他人の思想を許せない」などと自分が考えたりなどしていたならば、そもそも自分自身、他人の党派ありきの態度を非難する権利など持ちえなかっただろう。自分が本当に望んでいるのは、せめて自分自身の意見が種々の政治的集団、政治的派閥に絡め取られることなく、自分はどう答えを出すべきか考えられる状態に在ること。そして、そうするための方法はは、はてなブックマーク政経記事でコメントをするのをやめるか、アカウントに鍵をでもかけるしかない、ということだ。

 あらゆる人間の思想は偉大であり、ごみくずであり、またそのどちらでもないものであり、そもそも十全に観測し得ないものであり、そして尊重されるべきものだが、それはそれとして自分は人間の思想というものが単に集団意識を強めるための、承認欲求を得るための道具としてしか扱われないのなら、思想などという偉大なものより“ちんちん”という子供じみた、“ちんちん”それ自体を表すことのない、まったくもって存在価値の薄い名詞に愛情を捧げたい。
 なぜなら思想は人間を傷つけるが、“ちんちん”という言葉は誰も傷つけないからだ。

 
 はいポエムおわり。多分ブログはもう書きません